当山縁起

最近郷土史の研究で訪ねる人も多く、昔のままの漢文体のものでは難しくてわからないので、書き改めました。さて当山は、残念なことに三度程焼けており、新しくは明治三十六年六月一日の昼火事です。現在の様に消防機具が充実しておれば消火出来たかとは思いますが、当時の水鉄砲の様なポンプでは何とも致し方なく、立派な本堂や広い庫裡等全く灰になってしまったのです。古文書や絵画・仏像等も殆どなくなってしまいました。併し幸いなことに、この寺は関東でも屈指の大寺であり、当時の住職で本山へ行かれて住職になった方もある関係で、本山の書物の中に当寺の事が載っており大変参考となることです。

寺の名前について

当山は、桑島山 正覚院 金剛定寺と云いますが昔は能満寺と云いました。寺には三つの名前が有ります。【山号】昔寺は僧侶の修行する処であり人里はなれた山の中に建てられたのでその山の名を取ったのです。【院号】垣根のある屋敷と云うことで僧侶の住む宿坊を○○院と云った訳です。【寺号】仏像を安置し仏道の修行や仏事を行う所を寺と云います。

当山縁起

桑島の地理について

この桑島は旧瑞穂野村の北部に位置し、大部分は平坦地で田になっており、西側には小高い丘陸地があり、昔は林になっていましたが現在は畑や住宅地となり日増しに開発が進み住宅の群れとなっています。又東側には鬼怒川が流れていますが大昔は西側の丘の下を流れておりました。

紀元前一万年の頃、人類がやっと此地に住む様になった時代、其の頃の人達は、掘っ立て小屋か丘の所に横穴を掘り穴居生活をしていました。今でも西側の丘陸地には昔の人の住居の跡や貝塚や古墳が点在していますので大昔は集落があった様です。昔の人は大きい川の辺の小高い丘の所に住んでいた様です。飲み水や魚、又外敵から身を守るのに大変便利だったからと思います。さて此丘の下を流れていた鬼怒川は、大雨の降る度に洪水となって、沢山の土砂を押し流し、其の度に川の流れは変わり、沼が出来たり島が出来たりして、次第に現在地に移動した様です。古い図面には約二百ヘクタール程の広い土地が川の中にあった様に記されています。

現在の平坦地は大体元は川原であったのですが、その后那須火山体の噴火で火山灰が降り積り現在の土になったので何処を掘っても石や砂が出ます。砂地は果樹を植えるのには大変適していますが、日照りには弱くしばらく雨が降らないと作物は枯れそうになり、ろくな収穫もなくお百姓さんは困る訳です。ですからこの川の周辺は、昔は桑の樹が植えられ、養蚕が行われ絹織物が奨励されました。其の名残りとして、桑や絹に関係のある地名が所々に有ります。この様な理由で桑島と云う地名も生れたものと思われます。

又鬼怒川の名も昔は絹川であったようですが、たびたびの氾濫でこの地に害を及ぼしたので鬼の怒る川と改名されてしまった様です。併しこの鬼怒川は普段は大変流れもゆるやかで水量も多く、江戸(東京)とも連絡出来て便利であったので、昔は交通機関として大いに利用されました。この辺で取れる米や木炭や木材を江戸へ運び帰りは海の産物や生活必需品を仕入れて運び商売をしたのです。舟は荷物の運搬のみでなく旅人の足として利用され、有名な芸人や俳人達は好んで舟旅をしたようで人々の往来が盛んになるに従って舟付き場には荷物の問屋や人をとめる宿屋、食べ物茶屋等が段々出来てにぎやかになり、次第に宿場となって行きました。この桑島にも舟付き場があり宿と云い、当時川の中の舟付き場には倉庫や人家が沢山あったようです。ここで下ろされた荷物は荷馬車や馬で宇都宮の町へ運ばれ、旅人達は歩いて宇都宮に出て日光山のお参りに行ったことでしょう。昔の一時期はこのひなびた桑島の宿もにぎやかな町であったと思われます。

当山縁起

金剛定寺の開創

当山の開かれたのは弘安元年(西暦1278年)鎌倉時代北条時宗の時で、開山は伊豆北条の人益田峰忍比丘です。峰忍公は、両親が子供のない事を悲しみ、毎朝普香天子に祈って生まれたと云われる方です。幼少にして出家得度し、奈良の寺で事教をきわめ、廿六才の時高野山に登り伝法院に学び、求聞持の法を修し、その后諸国の霊場を巡拝して修行すること十三年、三十九才の時諸国を巡って、下野国桑島の里へ来られたのです。恐らくは墨染めの衣と饅頭笠の姿で、錫杖をついてこの桑島街道を通られたものと思います。うっそうと茂った木立の中に、かすかに薄日がさし、一つの井戸から蒸気がもうもうと立ち登り、その中に身の丈三尺余りのお不動様がうかんで見えたのです。不思議に思って村人にきくと、村人はあの井戸は「とっこ」の井戸と云い、昔八人の童子が「とっこ」を以て掘った井戸であり、大変有難い井戸で水はこんこんと湧き出ており、どんな病にもよくききなおらないものはないと云われ、夜には井戸から光がさし、又夜ふけには灯火が鬼怒川からとんで来ることがあり(竜灯と云う)本当に不思議な井戸であると話してくれました。この話を聞いた峰忍公は、この地こそ自分が久しくさがし求めた土地であると大変喜んで、其の傍らに草庵を建てて住み、寺院建立の誓願を立てました。併し建立資金の寄進も思う様にならず大変苦労をされました。峰忍公はある日求聞持の法を修すると共に不動明王に伽藍成就の願いをかけられました。そして毎日早朝より暗くなる迄ひたすら、浄財勧募に精進されたのです。漸く一堂が完成されご本尊不動明王も寄進されましたので峰忍公はここに住まいし日夜練行をつまれました。その後峰忍公の名を慕い随従し修行する者も次第に増して来たので、峰忍公の住居の正覚院の外に、東福坊・西福坊・南林坊・北林坊の四坊を建てて宿坊とされたのです。又その頃、鎌倉幕府の将軍惟康親王が大病にかかり医師も見はなす状態でしたので、幕府は峰忍公の名声を聞いて使者を遣わして病気平愈の祈願をさせました。峰忍公は親しく不動護摩の秘法を修し神呪をとなえて病身を加持されますと蛇影はたちどころに除かれて病気は快方に向かいました。この事を喜んだ幕府は数棟の建物と若干の供養田を寄進しましたので、次第に寺院としての形態を整へて行きました。

その後、約百年程すぎて、祐請上人と云う方がありました。常盤真壁の人で、母が雨引山の観音様に願をかけて生まれたと云われ、生来聡明で顕密二教を学び常に観世音の法を修しておられました。明徳四年(1495年)の春、当山に赴いて寺門再興を期せられました。その年の夏、大変な日照りが続き四ヶ月余り一粒の雨も降らず、作物は殆ど枯れ人々も又、餓死する者さへ出る始末で大変な騒ぎでした。祐請上人は一里程離れた鬼怒川の野手と云う所に壇を設け、廿一日の間雨乞いの行をされました。野手淵と云う所は、川が大変深く水が渦巻き、竜宮の入口と云われておりました。上人は仏舎利一粒を淵に投じ竜神に供養されました。その霊験あって、黒雲俄かに起って雷鳴を轟かせ、降りそそぐ雨で一寸先も見えぬ状態でした。この様にして大飢饉も治まり万物漸く生気を取り戻し、住民はひどい苦しみから救われました。翌年祐請上人、醍醐山に登り、東寺の道快僧正に会い、諸尊の行法の伝授を受けられた時、たまたま話がこの事に及び大変驚歎されました。後この事が、時の朝廷後小松天皇の耳に達し、大変感激された天皇は上人の位を賜わると共に金剛定寺の額をつかわされ、寺号を金剛定寺と改められました。上人は寺に帰り、山門に頂いた「額」を掲げ法門の拡張に努めました。枝院は十八を数え、又末寺となるもの三百余あったと云われます祐請上人を中興の祖(第一世)と云います。

その後、歴代の住職の努力により、常法談林(常設の僧侶の修行道場)として師弟の教養に勤め幕府からは御朱印廿五石を頂き、十万石の格式を具えて関東の大本寺として栄え、多くの学僧を出し、また本山の能化となる名僧等も出て本宗の発展に貢献致しました。然るに、明治初年の王制復古と廃仏毀釈の逆境は如何ともし難く、その上大火にあって一山灰滅に帰し、当山はまさに崩壊の寸前に立ち至ったのです。

明治四十四年前住職照尊師当山に晋住し寺門の再興を発願し、桑島仏教青年会を創して壇信徒の教化と農村の自力更生を期して青壮年の指導に努め、農繁期には託児所を開設して農村生活の向上に寄与し又、昭和九年の弘法大師一千百年の御遠忌には、記念事業として鐘楼堂及び講堂を新設し本堂の再建を計画しましたが、農村経済の不況と支那事変の勃発等により成就する事なく、又財戦後の寺有農地の全面解放は寺の前途を大変あやうく致しましたが、その後の我国の経済の発展による寺院経済の好転と五百余の壇信徒の協力に依り、壇信徒の菩提所として祖先の御霊の供養と生きた心の教化の場として、其の装いを新たにして現在に致っております。昭和三十二年持福院の本堂を移築して当山本堂とし、昭和四十六年梵鐘再鋳、昭和五十一年庫裡客殿及び境内を改修整備し又昭和五十九年の御遠忌には、報恩謝徳の念を表すべく、宗祖弘法大師御尊像の建立と本堂内部の改修を致しました。

当山縁起

唐銅製宝筐院塔

当山縁起

金剛定寺のかや

文化財指定
唐銅製宝筐院塔 元文元年鋳(1736年)
金剛定寺のかや 樹齢 約四百五十年
什 物
大般若経六百巻 元禄十四年納
当山来由記   元禄元年泊如運敞筆
諸 堂
地蔵堂     徳川江戸中頃の作
尚往昔は中門の先に仁王門、大門等があったが落雷で焼失、書院・護摩堂・経蔵等はとりこわされた。